第9話

ヨーロッパの孫に聞かせる

 

日本と世界の歴史

 

第9話 人類の教師 ソクラテスと孔子(後篇) 

 

 

 

岡市敏治

 


 1988年の夏、きみのママと叔父の哲郎とOPA、OMAとで、中国へ家族旅行をした。今から26年前のことだ。その翌1月、昭和天皇が崩御して、日本は昭和から平成に変わった。平成元年となった1989年5月には中国で天安門事件が起こり、11月には東ドイツでベルリンの壁が開放された。以後、雪崩をうつように社会主義圏のルーマニア、チェコスロバキア、ユーゴスラビアの東欧諸国、そして社会主義本家のソ連邦までが崩壊した。

 

  1. 1988年中国への旅

 ぼくたちが中国へ出かけた1988年はそういう世界史的大激動の前の年で、日本はバブル景気に沸いていた。ぼくたちは神戸港から鑑真号に乗った。3日目の朝、甲板に出ると海は一面黄土色の泥海だった。やがて水平線のかなたに、遠くうっすらと地平線が見えてきた。

「あれは長江の河口に横たわる崇明島という島で、その左に見える陸地は長江右岸です。」と船員が教えてくれた。海を航海していると思っていたが、船はとっくに長江(揚子江)を遡っていたのだ。対岸の左岸なんか、水平線のかなたで全然見えない。

何というでかい河だろう。長江はチベット高原かに源を発し、東シナ海に至る長さ5600kmのアジア第一の大河である。ウィーンの森の君の家の近くを流れているヨーロッパ第二の大河ドナウ川の2倍、日本列島の3倍の長さを流れてくるのだ。やがて鑑真号は上海(シャンハイ)に着いたが、とにかく中国という国は何と広大でバカデカイんだろうと、小さな島国からやってきたぼくらはのっけから度肝を抜かれた。

 

  1. 黄河は文明の揺りかご

 中国第二の河川は長江の800キロ北方を流れる黄河(長さ5500km)である。黄河こそ東アジアにおける文明の揺りかごであった。

 黄河中・下流域は偏西風によって中央アジアの砂漠から運ばれてくる微細で黄色い土が厚く堆積し、黄土台地を形成している。古代文明はその地に誕生した。

 黄土は養分と通気性・透水性に富み、水にさえ恵まれれば肥沃な農地に変わった。問題はその水である。豊富な水量をもつ黄河はあばれ河でもあった。黄土が川底に堆積し、氾濫を繰り返した。

 これを治めた者が王となった。殷王朝の始まりである。紀元前1600年ごろのことである。殷の王は亀甲や獣骨を焼いて神の意志を占い政治を行った(神権政治)。骨には中国最古の甲骨文字が刻まれていた。これが漢字の起源となる。

 

  1. 不思議の文字 漢字

 そしてこの漢字こそが広大な中国――ヨーロッパより広く、日本の27倍、オーストリアの110倍だよ――を一つの国としてまとめる絆(きずな)の役割を果たした。ヨーロッパで英語とフランス語とドイツ語とイタリア語、スペイン語が相通じないように、中国でも北の端と南の端、西の果てと東の果てでは、互いに全く異なる言葉を話していた。

 もし彼らに共通するものがなかったなら、きっと完全にバラバラになっていたに違いない。その共通のものとは彼らの文字であった。漢字である。

 ことばがちがうのに共通の文字というものが役に立つのか。それで書かれたものを、たがいに異なることばを話すひとたちが理解できるのか。きみは疑問に思うだろう。それが、中国の文字ではできるのだ。その文字は「ことば」でなく、「ことがら」を書きとめるのだ。たとえばきみが「太陽」を書きとめたいならば、きみは「」という記号をつくる。そしてきみはそれを「タイヨウ」(日本語)、「サン」(英語)、「ゾンネ」(ドイツ語)あるいは中国風に「ジョエ」と、好きなことばでよむことができる。そしてこの記号を知る者は、だれでもその意味を理解する。こんどは「」と書いてみよう。ここでもきみは、ただ数本の線でかんたんにと書けばよい。これを中国語では「ム」と声を出してよむが、この記号が「木」を意味することを知るために、その発音を知る必要はない。それなら物も形もない色の「シロ」はどうすればよいだろう。「シロ」を書くには、何か白いものを記号で示せばよい。すなわち、太陽の光線、太陽から出てくる一本の線「」である。これをたとえば「パイ」(中国語)、「ヴァイス」(ドイツ語)、「ホワイト」(英語)、「シロ」(日本語)とよんでもかまわない。東はどうなるかって? 東は、木の後方に太陽が昇るところ、木の記号の後ろに太陽の記号を描けば「」になるのだ。

 だが、この漢字には一つ大きな問題がある。中国には現在4万もの漢字があり、多くの文字は非常に複雑になりむずかしくなっている。覚えるには大変なエネルギーと時間が必要だ。

*この点、日本は1000年前にひらがなかたかなという表音文字を発明したので、常用漢字1945字で日本語表記上全く問題ない。

それにひきかえ、きみたちは、26のアルファベット(表音文字)を覚えればよいのだから、アルファベットを発明した古代フェニキア人に感謝しなければならないね。

ともあれ、文字を持たなかった日本人は象形文字である漢字のおかげで、1300年以上も前から中国語を一言も知らない者でも、中国の古典を日本語(やまとことば)で読み下して理解していた(訓読)。その古典の中に人類の教師・孔子の『論語』が含まれていたことはいうまでもない。

 

  1. 春秋戦国時代

 孔子が活躍した時代は、中国史で春秋戦国時代といわれ、前5~6世紀(今から2500年前)のことである。前11世紀に殷(イン)から周に王朝が変わる(殷周革命)が、500年を経た前6世紀の周王朝には、かつての勢いはなく、各地に群雄(有力諸侯)が割拠していた。当時鉄製農具が普及し、犂(スキ)を牛に引かせて耕作する農法が発明され、農業生産力は大いに高まっていた。

 春秋戦国の乱世を生き抜くために、諸侯は進んで有能な人材を求め、学問の保護に努めた。そのため、「諸子百家」と呼ばれる多くの学派が生まれ、互いに競い合う「百家争鳴」の状態となった。中国4000年の歴史で最も華やかな時代であったろう。その諸子百家の中で、というより中国史上最大、最高の学者が孔子である。

 孔子が生きた時代は子が親を追放し、弟が兄を殺す。君主が部下の貴族の妻と通じる。その貴族が君主を弑逆する。そういう乱世、下剋上の時代で、人倫は地に堕ちていた。そういう時代に理想主義をかかげてこれを貫いた孔子とはいかなる人物だったのだろう。

 

  1. 子路が見た孔子

 孔子に子路という無頼漢出身の弟子がいた。率直で、一本気で、気の強い、そして何より素朴で良心的な男であった。その子路から見た孔子とは…

このような人間を子路は見たことがない。力千鈞の鼎を挙げる勇者を彼は見たことがある。明千里の外を察する智者の話を聞いたことがある。しかし孔子にあるものは決してそんな怪物めいた異常さではない。ただ最も常識的な完成にすぎないのである。知情意の各々から肉体的の諸能力に至るまで、実に平凡に、しかし実にのびのびと発達した見事さである。一つ一つの能力の優秀さが目立たないほど、過不及無く均整のとれた豊かさは、子路にとってまさしく初めて見るところのものであった。闊達自在、いささかの道学者臭もないのに子路は驚く。この人は苦労人だなとすぐに子路は感じた。可笑しいことに、子路の誇る武芸や膂力においてさえ、孔子の方が上なのである。ただそれを平生用いないだけのことだ。侠者子路はまずこの点で度肝を抜かれた。放蕩無頼の生活にも経験があるのかと思われる位、あらゆる人間への鋭い心理的洞察がある。そういう一面から、また一方、極めて高く汚れないその理想主義に至るまでの幅の広さを考えると、子路はうーんと心の底から唸らずにはいられない。とにかく、この人は何処へ行っても大丈夫な人だ。潔癖な倫理的な見方からしても大丈夫だし、最も世俗的な意味からいっても大丈夫だ。子路が今までにあった人間の偉さは、どれも皆その利用価値の中に在った。これこれの役に立つから偉いというに過ぎない。孔子の場合は全然違う。ただ其処に孔子という人間が存在するというだけで充分なのだ。少なくとも、子路にはそう思えた。(中島敦『弟子』)

 

  1. 己の欲せざるところを人にほどこすことなかれ

 孔子の思想の中心は、仁である。仁は人に二をそえた字で、人間と人間のあり方、人と人が支え合う人間存在のあり方を示すことばである。仁の道は忠恕であると孔子はいう。は自分自身にうそいつわりをいわないこと。自己に誠実であることである。は、他人に対する思いやりの心である。他人の立場に立って心から理解する思いやりであり、他人を人間として尊重することである。

弟子の子貢が生涯行うべき核心を質問したのに対し、孔子は「それか、己の欲せざるところを人にほどこすことなかれ。」と答えている。は、心からの人間への愛ということができる。

 愛情の義務こそ人間の使命である。そうした愛情をもって人は生きていかねばならぬ。下剋上の乱世にあって、これは強いまことに強い理想主義であった。

 孔子はその最晩年、自らの人生を省みて次のように述べている。

子曰く、吾十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順う、七十にして心の欲する所に従って矩を越えず。

これは孔子の自伝に他ならぬ。孔子といえども幼年の時から学を好んだのではない。また青年時代にすでに事を成そうとしたのではない。三十にして初めて立ったのである。世に立っても惑いがなかったのではない。四十にしてようやく確固とした己の道を見いだしたのである。が、それを実現するのに焦らなかったのではない。五十にしてようやく天命を知り、落ち着きを得たのである。落ちついていても他人の言行に対する非難や否定的な気持ちがなくなったというのではない。六十に至ってようやく寛容な気持ちになれたのである。しかし他に対するこの寛容な是認の境地においても己の言行をことごとく是認するまでには至らない。遺憾や後悔はなお存した。それがなくなったのは七十になってからである。孔子が没したのは七十三歳といわれているから、右の述懐は死に近いころのものであろう。孔子は一生を回顧して晩年の二、三年のみを自ら許したのであった。(和辻哲郎『孔子』

 この孔子の自伝は、時とともに一般的な人生の段階として、広い共鳴を受けるにいたった。孔子自身の生活の歴史であったものが、あらゆる人に通用する人生の段階とされてきたところに、人生の教師としての孔子の面目躍如たるものがある。

 

  1. 最上至極宇宙第一の書

 論語は過去1千年以上にわたって、中国でも日本でも単に知識人ばかりではなく、町の人たちも農村の人たちも文字を知る限りの人たちはまず始めに『論語』を読むという風習が当たり前のこととして一般的であった。『論語』は西欧世界の『聖書』に相当する書物であったというべきであろう。

 江戸時代の日本では、その創設者の徳川家康が『論語』を人間の教えとして尊重する朱子学(儒学)を国教的な地位に据えたので、『論語』が非常に広く読まれるという状態が日本でもいよいよ決定的なものになった。江戸前期の高名な儒学者伊藤仁斎にいたっては『論語』を「最上至極宇宙第一の書」とまで書き残している。

 明治になっても、『論語』は国民必読の書物であった。福沢諭吉も夏目漱石も森鴎外も、経済界では渋沢栄一などもほとんど全文を暗記するまで読みこんでいたのである。

 

 ところで、第7話で話したソクラテスと今回の孔子、さらにはインドの釈迦はほぼ同時代の人物である。長い人類の歴史において、ソクラテスを抜く哲学者は現れていない。同様に孔子に優る教育者も寡聞にして聞いたことがない。釈迦も今に至る仏教の開祖として、宗教者の頂点を極めた人であったろう。

 してみると、ソクラテス孔子釈迦という3人の聖人を生んだ2500年前、前5世紀世界というのはまことに躍動的で魅力的な奇跡の世紀でもあったのである。

次回は『ヨーロッパ近代と江戸時代』だよ。(つづく)