第10話

ヨーロッパの孫に聞かせる

 

日本と世界の歴史

 

第10話 ヨーロッパ近代と江戸時代 

 

 

 

岡市敏治

 

「日本は、世界の中でもきわだって特色のある、洗練された文化を長年保ってきた国である。その日本が、今日では経済大国に成長し、しかも世界第三位を占めるにいたっている。そして、人類の文明が到達した偉大な進歩のうち、多くの分野で最先端か、もしくはそれに近い位置に立っているのである。この成果がいかに目覚ましいものであるかは、世界地図を広げて日本の地理的条件を調べ、その天然資源の乏しさを考慮に入れると、いっそうはっきりしてくる。この国がなぜこれほど大きく発展したかは、地理的条件や資源では説明することができない。それはひとえに、国民のすばらしさと特異な歴史的経験の賜物なのである。」(1979  ”THE JAPANESE”

 

 これは元駐日大使であり、ハーバード大学教授であったエドウィン・O・ライシャワー博士の著作から引いたものである。今回はライシャワー氏のいう「特異な歴史的経験の賜物」である『江戸時代』の話をすることにしよう。

 江戸時代とは17世紀から19世紀後半にかけての約250年間をいう。この時代のヨーロッパはどうなっていたのだろう。

          

         第1章 戦争と革命のヨーロッパ

 ヨーロッパは16世紀、ルネサンスと宗教改革により、中世1000年の幕を閉じる。(このことは第6話で少し話したね。)同じころ、ヨーロッパは大航海時代を迎えていた。蛋白源として、日本人は古来魚を食してきたが、ヨーロッパ人は獣肉を食う。これの香辛料(胡椒、スパイス)として欠かせないのが、東南アジア、特にマラッカ諸島の胡椒であった。胡椒はイスラム商人を通じてインド洋、紅海を経てエジプト・アレクサンドリアに運ばれ、これをイタリアのヴェネティアの商人が地中海航路でヨーロッパにもたらした。胡椒は金と同じくらい高価で貴重品だった。

 ところが、15世紀に台頭したオスマン・トルコが東地中海の制海権を握ったために胡椒がヨーロッパに届かなくなった。一大事である。解決のために先鞭をつけたのがポルトガルとスペインだった。ポルトガルのエンリケ航海王子の支援をうけたバルトロメウ・ディアスはアフリカ西岸を南下し、1488年南端の岬に到着した。国王はここをケープタウン(喜望峰)と命名した。

 1498年ポルトガル人ヴァスコダ・ガマは喜望峰を通り、ついにインドに到達した。ガマの艦隊は往復2年、乗組員170人中100人以上を失って帰国するが、インドで得た胡椒などの物品は航海費用の60倍の利益を生んだという。

 スペインも負けていない。スペイン・イサベル女王の支援を得たイタリア・ジェノヴァのコロンブスは、1492年サンタ・マリア号を旗艦とする3隻の艦隊を率いてスペインを出港した。70余日の航海の後、艦隊はバハマ諸島の一小島に到達、その島をサン・サルバドル(聖なる救済者)島と名づけた。コロンブスによるアメリカ発見の序章である。このようにして、大西洋航路はスペインによって開かれた。

 貿易や植民地経営をリードしたポルトガルとスペインは世界をまたにかけて繁栄を謳歌するが、長続きせず、17世紀以降は後発のオランダやイギリス、フランスにその地位をとってかわられる。(これらは皆サッカー強国だね。)

 ヨーロッパ各国は、日本の江戸時代に相当する250年間、覇権や植民地支配をめぐって革命と戦争を繰り返していた。

 イギリスは1640年、市民革命(ピューリタン革命)によって絶対王制を倒す。いちはやく、産業革命を起こして、「世界の工場」となり植民地獲得競争の先端を走る。イギリスの植民地支配を受けていたアメリカは、イギリスと独立戦争を行い、1776年アメリカ合衆国を建国した。

 この13年後の1789年、フランスでフランス革命が起こり、市民によってブルボン絶対王政が打倒され、ルイ14世とその王妃・マリー・アントワネット(ハプスブルグ帝国の王女で君らの住んでいるウィーンから嫁に行ったんだ。)は断頭台の露と消えた。

 以後はナポレオンの登場によってヨーロッパ中が戦争となる(1796~1815)。

 このように、江戸時代に相当する17世紀から19世紀のヨーロッパは革命と戦争のるつぼと化し、ためにヨーロッパの武器と戦争技術は飛躍的に進化を遂げ、19世紀後半にはアジア、アフリカのほとんどの国がヨーロッパ列強の軍門に下り、彼らの植民地にされてしまうのである。

 さて、それでは話を江戸時代の日本に戻そう。


 

         第2章 鎖国による孤立

 江戸時代の前の時代、16世紀の日本から話を始めよう。

 この時期の日本は慢性的な内乱を経験していた。いわゆる「戦国時代」である。地方の武士、武装した僧兵、海賊たち、およびあらゆる種類の自由奔放な冒険者たちがお互いに戦ったり、裏切り合ったり、権謀奸計をつくして競い合っていた。

 1543年にポルトガ人が種子島に漂着してこの情勢に重大な変化がおこった。日本人はヨーロッパ文明の多くの側面に強い印象を受けた。とりわけ、鉄砲とキリスト教である。鉄砲は分解して製法を習得、たちまち自国生産が可能となり、32年後の長篠合戦(1575年)で織田信長は数千挺の鉄砲を使って当時日本最強といわれた武田騎馬軍団を壊滅させた。日本の覇権は信長から秀吉へ、そして17世紀に入り徳川家康に移る。江戸時代の始まりである。

 徳川幕府がまず最初にとった政策が「鎖国」1635年)である。幕府がこの国家的孤立を決定する直前までは日本国民が史上まれにみる国際化時代(海外渡航者約10万人、東南アジア各地での日本人町の隆盛。シャムでの山田長政の活躍など)にあったことを考え合わせると、これはいかにも奇妙な政策である。

*幕府:出征中の将軍の幕で囲った陣営のこと。転じて、武家政治の政府を指すようになった。

 16世紀半ばに一隻のポルトガル船が九州の南端にある種子島に漂着し、ヨーロッパの鉄砲を伝えたことは先に述べたが、ほどなくしてスペインの宣教師フランシスコ・ザビエルが来日し、キリスト教(カトリック)の布教を始めた。ヨーロッパ大航海時代の波が極東


の沿岸にまでに達し、これは日本人にとっての最初の西欧文明との物質的、精神的接触を意味していた。日本はなぜこの国際化の流れを拒否し、孤立化政策をとったのだろう。

 鎖国政策はキリスト教を排除しつつ、幕府が貿易の利益を独占するという二重の目的のために採用されたと考えられる。その証拠にキリスト教布教に熱心なポルトガルは排除したが、布教はせず貿易だけのオランダ(プロテスタントの国)とは長崎の「出島」を通じてずっと交易したのだから。

 したがって、日本は外国との関係を全く絶ってしまったわけではないが、この孤立政策によって政治、経済体制に対する外国からの圧力をすっかり排除できるようになった。つまり、鎖国は保護貿易をしたのと同様の役割を果たしたのである。

 先のライシャワー教授はいう。

「鎖国による平和と秩序が続いたおかげで江戸時代の経済は急速に成長し、人口が大幅に増加した(約3000万人以上)。また日本はそれなりの広さ(イギリス、イタリア、ドイツの各国より広い)と多様性をもっていたし、一応外国との接触も保っていたので、引き続き輝かしい文化を発展させていくことが十分に可能だった。」

「それはヨーロッパのどこにも類をみないものであるばかりでなく、少なくとも18世紀までは組織、効率、秩序の点において、同時代のヨーロッパのどこの王国よりもすぐれていた。日本のように孤立した国でなければ到底それは不可能だったろう。」

 

 さて、それではライシャワー氏のいう「ヨーロッパのどこにも類をみない」という江戸時代の効率的組織と秩序について、具体的に検証してみよう。

                

               第3章 参勤交代制

 江戸とは今の「東京」のことで、これは文字通りに「東の京都」を意味する。この都市がこのように命名されたのは、1868年、明治維新によって徳川幕府が倒れ、天皇が千年の都・京都を離れてここに移動したときのことだ(これを東京行事という。)。お堀に囲まれた天皇のいます皇居こそ、徳川将軍の居城・江戸城だった。

 江戸幕府はひじょうに中央集権的な政権で諸藩の領主である大名を一年おきに江戸に住まわせ、永久的な人質としてその家族を江戸に留めることを求めた。これが参勤交代制と呼ばれるもので、大名の将軍に対する忠誠のシンボルとみなされた。この制度はフランスの貴族たちがベルサイユ宮殿に定住したり、逆にドイツの領主が自領に定住していたのとはおおいに異なっていた。

 諸藩は江戸で最低一つの大所帯(藩邸)をかまえることを強制され、そうすることで諸藩の毎年の収入の相当部分を江戸との往復の旅費や、藩邸の建築と維持に振り向けねばならなかった。そのため諸藩は江戸の暮らしや往復に必要な現金収入を得るため、新田開発により米の増産につとめると共に、地方地方の特産品(宇治・駿河の茶、備後の藺草、阿波の藍、薩摩の黒砂糖、甲府のぶどう、河内木綿、有田焼、輪島塗、野田の醤油など)をつくっては広く国民一般に売りさばかねばならなかった。

 この結果、生産面に地方色が豊かになっただけでなく、当時のアジアでは類をみないまでに進んだ形の貨幣経済が全国的に広がった。これらの条件はまた、大都市の出現をうながした。多くの家臣団を擁する江戸の町は100万人以上の人口をもつ大都市に発展した。(これは当時世界一の人口であった。)

西日本の一大商業中心地であった大阪(OPAとOMAのご先祖様はここに住んでいた。)、皇室の所在地であり、洗練された手工業の栄えた町でもある京都はそれぞれ30万と20万の人口をかかえるに至った。(同時代のイギリスで、10万人以上の人口の都市はロンドンしかなかった。)

全国に300近くあった大名の領国(藩)にそれぞれが独立した小国家を形成し、独自の個性を有していた。(地方自治)

 


一方、同時に諸藩は日本の中心である江戸に参勤交代の網の目によって緊密に結びつけられていた。(中央集権)

このことは全国的に道路網が整備されるという結果を生み、民族国家形成の基盤が固められた。のちに日本が明治以降ただちに近代的な統一民族国家を形成することができたのは、言語の標準化、社会意識の同質化など、日本全体が一つの共同社会を形成するのに必要な基盤作りが、この200年以上にわたる参勤交代の国内交流により、ほぼ完成されていたからである。このような体制は、アジアのどの国にもなかった。

 

第4章 赤穂浪士の討入り

 1701年(元禄14年)、江戸城の松の廊下で刃傷事件がおこった。勅使接待役、浅野内匠頭(赤穂藩主35歳)はその上司の吉良上野介(61歳)に小刀をふるって刃傷におよんだ。取り押さえられた内匠頭は、幕府により即日切腹を命じられ、さらに浅野家は断絶に処せられた。この処分は裁決に将軍綱吉が口をきいたが為に、喧嘩両成敗という当時の方法の常識を全く無視した異例なものとなった。赤穂藩ではとりつぶされ家臣たちは、一人前の武士の地位から浪人に転落(失業)してしまったのである。

 四十七人の浪士(浪人)は主家を没落に追い込んだ相手に復讐する事を誓った。2年の間ひたすら復讐のチャンスを待った。そしてある雪の夜、江戸に集合した浪士たちは、亡君の旧敵吉良上野介の家に乱入し、その首をはねて仇を取ったのである。

 それはもちろん幕府の権威を愚弄する行為であった。しかし、身を捨てて主君への忠誠を全うした彼ら四十七士はたちまち国民的英雄となった。断罪は必至であったにもかかわらず、彼らは一人として逃げも隠れもしなかった。幕府は激しい論争の末、ついに、浪士が名誉ある死である切腹によって罪を償うことを認めたのだった。

 この赤穂浪士の討ち入りは1637年の島原の乱をのぞけば、徳川250年の治世におけるもっとも大規模な戦闘であった。このことからわかるように、この時代の日本は当時のヨーロッパのどの国に比べても、平和と秩序の維持を始めとする多くの点で、より効率的に統治されていたことは疑いのない事実である。

 ところで、四十七士の大半の武士が赤穂藩では百石以上の知行とりであった。ということは、当時の知識人、教養人としてエリートであったのである。

 支配階級としての武士は全人口の7%を占めていたが、これはヨーロッパのどこの封建階級よりもはるかに多い。日本では「武士」という包括的な名でよばれるが、一般に欧米では君も知るように「サムライ」という言葉で知られている。

 サムライは平和な江戸時代に専門職としての戦争は開店休業状態で、さすればその特権的な身分をどのように保持すればいいのだろう。無為徒食のサムライに士農工商最上層のエリートとして生きる道を教えたのが「武士道」である。

 そして、この武士道に学問的根拠を与えたのが、前回話した孔子の儒学だったのだ。

 武士は戦士であることをやめて、優秀な官僚となった。江戸幕府とその地方政権である全国300の諸藩は、武士道精神に鍛えられた優秀で志の高いサムライによって、安定した統治を保つことが出来た。それは当時興りつつあった近代ヨーロッパの民族国家よりは、いろいろな点で効率のいい政府であった。いずれにしても、徳川体制は日本に平和をもたらし、19世紀中ごろまでかなり有効に機能していたのである。

 


          第5章 黒船来航

 ついに江戸250年の平和が破られるときがきた。1853年の夏、4隻の「黒船」が江戸湾(現在の東京湾)にやってきた。船体は真っ黒で巨大であり、うち2隻はもくもくと煙を噴き出していた。これがペリー提督によって指揮されたアメリカのインド艦隊の歴史的に記念すべき到来だった。この黒船の艦砲射撃を受ければ、木と紙でできた江戸の町はたちまち大火災を起こして、灰燼と帰すであろうことは誰の目にも明らかだった。

 ペリー提督の艦隊は一発の砲弾を発することもなく黒船の軍事的強力さを単に誇示するだけで、200年以上続いた日本の鎖国に終止符を打たせたのである。

 なにしろ、当時の日本は国家海軍をもっていなかった。陸軍に相当すべき武士集団といえば、彼らはヨーロッパ中世の騎士たちのように剣と槍で武装していた。剣と槍と武士道だけでどうして黒船に立ち向かうのか。欧米の近代科学が生みだした恐ろしい技術が目の前に迫ってきている。アヘン戦争(1840~42)でイギリスに敗れた清国の二の舞となってはならぬ。日本の政治体制を近代技術を使いこなせるような体制に変革し、西欧と同じような強国にならない限り、日本が独立国として生きながらえていくことは不可能だ。

 西欧との間の技術差にどう対処するか、という問題に対する唯一の正解が西欧と闘うことではなく、幕府を倒して、強力な近代的統一民族国家を建設することであることがはっきりしてきた。

 


 1868年、徳川幕府は崩壊し、日本は近代主義革命に成功する。これが明治維新と呼ばれる政治革命である。そしてここから展開する明治の物語もまた、世界史上屈指のものである。わずか5隻のペリー艦隊の前に為す術を知らなかった日本が、そのわずか50年後には、ナポレオンを敗走させた当時世界最強のロシア陸軍を打ち負かすのだから。(1904~5日露戦争)さらには日本海海戦(1905年)においてバルチック艦隊を撃沈し、ネルソンのトラルファーが海戦(1805年)をも上回る近代海戦史上もっとも完璧な勝利をロシアからもぎ取るのである。

 どうしてそのようなことが可能だったのだろう。それを可能にした「明治」という時代については、また別の機会に話すことにしよう。次回は『中国の歴史』だよ。つづく。

2014.715