ドイツの小学校2年生(日本と世界の歴史シリーズのヒロイン)の描いた絵より
冬になると雪が降って寒い山の中のその村は、燦ちゃんの故郷でした。
春になると村は菜の花でいっぱいで、黄色い海になりました。
村にはカラスがたくさんいて、人間と仲良しでした。カラスは人間が耕した畑の虫を食べ、人間たちはカラスに蛇を追っ払ってもらいました。
ある日、燦ちゃんは怪我をしている小さなカラスを見つけました。
家に連れ帰って、お母さんと妹の明ちゃんと一緒に介抱をして、怪我を治してやりました。
優しくされると、カラスの目に涙が浮かびました。
燦ちゃんも一緒に泣きました。
燦ちゃんはそのカラスにかあ太郎という名をつけ、仲良しになりました。
毎日燦ちゃんはカラスと遊び、月が東に出るころ、西に沈む太陽と一緒に家に帰りました。
「黒い鳥、黒い鳥、カラス!カラス!」
明ちゃんが歌います。かけっこの好きな元気な燦ちゃんはかあ太郎と走り回ります。
ある日、かあ太郎は燦ちゃんと明ちゃんをを森の中に連れて行きました。
「僕の宝物を見せてあげる。」
鬱蒼とした森の中、木漏れ日に静かに青い蝶が舞っています。ブナの芽がぴょこんぴょこんと生えているせせらぎをたどり、二人と一羽は進んでいきました。
見上げると、緑の葉っぱがいっぱい、足元にはカサコソと死んだ葉がいっぱい、ふと燦ちゃんは不思議な感覚に襲われました。巡り巡る背中合わせの生と死、命の循環、それが永遠に続いていく…宇宙と一つになったような感覚…ハッと気づくと、普段は入らないくらい深く山に分け入っていました。燦ちゃんと明ちゃんは冒険にどきどきと胸が躍りました。
「わあ!」
辿り着いたところは、桂の根元にある、小さな泉でした。ダイヤモンドよりきれいな七色の虹がかかっています。
「かあ太郎、ここがかあ太郎の家なの?」
かあ。
かあ太郎は水の中にくちばしを突っ込み、何か取り出しました。
「水晶!」
それは天然の水晶でした。水の中を見ると、ビー玉やガラスのかけらも入って、きらきらと輝いています。
「これは、かあ太郎の宝物なの?」
燦ちゃんが聞くと、かあ太郎はかあ、と答えました。
「教えてくれて、ありがとう。」
燦ちゃんは水晶をいろいろな角度からよくよく見てから、そっと水の中に戻しました。
「これは、大切にしまっておくね。」
かあ太郎と別れて、道々折っておいた木の枝を目印に、二人が歌を歌いながら山から戻りかけると、ふと茂みの中で動く影があります。獣臭いにおいがします。
「なんだろう?」
明ちゃんが近づこうとしたとき、燦ちゃんははっとその手を引きました。
「熊!」
そう、それは大きな大きなツキノワグマでした。熊も二人に気づき、ぐるると低く吠えました。明ちゃんはキャッといって走って逃げそうになりました。燦ちゃんはその手をぐっと引き戻します。
「熊に会ったら走ったらダメだって!お父さんが言ってたでしょ?」
「う、うん…」
後から考えたら、どうしてその時そんな冷静に行動する勇気が持てたのか二人にわかりません。
ただ、二人はゆっくりゆっくり熊から目を離さずに後ろへ進み、熊もゆっくりゆっくり後ろの茂みに隠れ、そうしてお互いの姿すっかり見えなくなり、匂いもしなくなったころ、二人は走り出しました。走り始めるとどんどん怖くなって、膝ががくがくしながら二人は必死に走って村にたどり着きました。
「お父さん!お父さん!」
村で畑仕事をしていたお父さんに、明ちゃんが抱きつきます。
「そうか、熊に会ったのか。二人とも、そんな森の奥にもう子供だけで入っちゃだめだ。」
「せっかくかあ太郎が宝物を見せてくれたんだよ!熊なんか、いなければいいのに!」
お父さんは考え深く言いました。
「燦、それは違う。確かに自然は時に怖い。だから人間は文明を発達させ自然と戦ってきた面もあるんだろう。でも、熊だってやさしい自然の一部なんだ。私たちの生活にだって、大きく大きく考えれば、役立っているんだよ。熊がいなかったら、森の生態系は壊れてしまうんだ。生態系ってわかるか?ちょっと難しかったかな?」
「セイタイケイ?」
「この辺にいる熊や鹿や栗鼠や猿や…カラス…そして人間や木や…すべての命の作る輪っかのことだ。」
「熊も、役に立つ?でも、怖いよ…怖いことなんか、いやなことなんか、この世になくなっちゃえばいい。」
「明、それは違う。自然というのは、世界というのはやさしいだけじゃない。でも、この世界は、宇宙は、大きな愛でできているんだ。いやなこと苦しいことがあって初めて、人は本当の幸せに気付けるんだよ。愛を知るんだよ。それは、何にも代えがたいこの世に生きる喜びだ。生きることに意味があると思わせくれる唯一の感覚なんだ。
二人にはまだわからないかもしれない。でもこの先小さくても大きくてもするつらいことがあったとき、父さんのこの言葉を思い出して。苦しみを知らない人はやさしくもなれない。この世のすべては、大きな愛に気づくための、試練なんだよ。」
世界は大きい、お父さんは言いました。私たちが考えるより、ずっと。
「さあ、ご飯にしよう。お母さんが待ってる。」
3人は手をつないで、家に帰りました。
それは、幸せな、幸せな、光景でした。
燦ちゃんが10歳になるころ、街から開発業者がやってきました。
村は廃棄物置き場になり、工場ができ、燦ちゃんたちは悲しかったけれども、お金をもらって街へと移住しました。
「かあ太郎、さよなら…」
燦ちゃんは泣きました。明ちゃんも泣きました。「かあかあかあ」
かあ太郎は、くるくる空を回りながら、2人の乗った車が見えなくなるまで、ずっと鳴きながら見送っていました。
餌をくれる人間がいなくなった村で、カラスたちは、生ごみを食べて飢えをしのぎました。
それで病気になってしまうものも出ました。
カラスたちはぐっと数を減らしました。
やがて工場はさびれ、村は完全に無人になり、産業廃棄物だけが残されて、木も生えない黒い山になりました。
緑の畑は黒いタイヤの山に。
黄色い畑はギラギラ光るさびた金属のごみ山に。
かあ太郎は悲しみました。そして、燦ちゃんと会いたくて仕方ありませんでした。
かあかあかあ。燦ちゃんに会いたいよう。涙が一滴、かあ太郎の目から落ちました。
「そうだ、菜の花がたくさん咲けば、また燦ちゃんが戻ってくるかもしれない!」
かあ太郎はそう思いつき、村はずれに少し残っていた菜の花の種を、村に蒔き始めました。
かあかあかあ。燦ちゃんもどってこい。明ちゃん戻って来い。きれいな畑、戻って来い。
毎朝毎晩、月が東に出るころまで、太陽が西に沈むまで、かあ太郎は菜の花の種をまきました。
他のカラスたちは笑って言いました。
「無理だよ。こんな汚れてしまった土地に、菜の花がまた一面に咲くようになるなんて。」
でも、かあ太郎は、黙って種をまき続けました。
雨の日も、嵐の日も、かあ太郎は菜の花の種をまきました。
かあかあかあ。燦ちゃん戻って来い。明ちゃん戻って来い。きれいな空気と水、戻って来い。
でも、菜の花は咲きませんでした。かあ太郎はがっかりしました。
「やっぱりみんなが言う通り、だめなんだ。」
雨が降っていました。冷たい雨でした。涙が一滴、かあ太郎の目から落ちました。
その時です。
ぱっと、雲間から日がさしたのです。そして、少し向こうの車の影に、一輪、一輪だけ、小さな、小さな菜の花が、咲いていました。
かあ太郎は思わず叫びました。
「ああ、燦ちゃんだ!あれは燦ちゃんの笑顔だ!」
かあ太郎は俄然元気になりました。1000粒蒔いて一輪、
でも、この荒廃した大地に、花は咲くのです!
「もっと、もっと蒔けば、いっぱいいっぱい花が咲く!」
それにはみんなに協力してもらわなくては。
かあ太郎はここらで一番大きいカラスのもとを訪ねました。そのカラスがみんなに声をかけてくれれば、多くのカラスが動いてくれると思ったからです。一番強い大きなカラスは、ガラスや金属の破片をたくさんため込んで、気取っていました。
「ほら見ろ。宝物だらけだ。私はこの世で一番の金持ちなんだぞ!」
あ太郎は言いました。ほとんど叫ぶように言いました。
「でも、こんなの食べれないよ!?それに、どんなに大金持ちでもここにはやさしさを分けてくれる人間もいないし、夢をくれる子供たちもいない!」
大ガラスは、黙ってしまいました。
「僕は種をまく!菜の花でいっぱいにするんだ!この村に人間を呼び戻すんだ!」
しばらく、大ガラスはかあ太郎を見つめて黙っていました。かあ太郎もじっと、大ガラスの目を見つめ返しました。やがて、大ガラスは重々しく言いました。
「私の仲間にも、協力するよう言っておくよ。」
「ありがとう!」
かあ太郎は、必死で種をまき続けました。
その姿を見て、他のカラスたちも、もっとたくさん種をまいてみようかという気持ちになり、他にも一羽、二羽と協力するカラスが増えていきました。
みんな、種をまきながらかたりあいます。
「人間の子供と遊ぶのは楽しかったなあ。」
「あの頃人間たちは僕達にご飯を残しておいてくれたっけ。飢えることもなく、仲良く楽しく暮らしていたなあ。」
「懐かしいよ。」
長い年月が経ちました。やがて、村の端から、少しずつ菜の花が増え始めました。
廃工場の上に。
廃車場の上に。
汚れた機械油の流れる田んぼの上に。
はじめはぽつぽつと、やがて光が降り注ぐように、
菜の花は一面に咲いてゆきました。
燦ちゃんはそのころ、慣れない都会暮らしと汚い空気のせいで、病気になっていました。
「あの村に帰れたらなあ。」
燦ちゃんは世話をしてくれるお母さんと明ちゃんに言います。お父さんも言いました。
「あの村のきれいな空気の中に戻ることができれば、燦の病気もきっとよくなるのにねえ。」
そんなことをいいながら、お母さんの手が撫でてくれると、燦ちゃんの咳は少し良くなるように思えるのでした。
明ちゃんは、アスファルトの隙間に咲く、小さな野の花を見つけては、家に持ち帰りました。
「明、ごめんね、ありがとう。」
それをみると、燦ちゃんの顔は、少しだけ明るくなるのです。
ある日、草を摘んでいる明ちゃんを、クラスメートの男の子が蹴飛ばしました。
「ばーか!なにやってんだ!おまえばかじゃねーの?死ね!」
明ちゃんは怒りました。そして、その男の子に向かっていきました。でも男の子はさっさと逃げてしましました。
その晩明ちゃんは擦りむいた膝を抱えて、眠れませんでした。
「試練だなんて…これは苦しみは苦しみでも、熊みたいに役に立つものじゃない。ただの理不尽、暴力じゃない!」
なんであんなことをするんだろう?
明ちゃんは苦しみました。夜も眠れずに考えました。
そして、お母さんに打ち明けました。
お母さんはそっと明ちゃんの頭をなでて、抱きしめてくれました。
「かわいそうな男の子ね。明みたいに、明るい空も菜の花畑もかあ太郎のことも知っているわけじゃないんでしょう。」
忙しげな大人たち、車や機械であふれる灰色の街、与えられるのはスマホやゲーム機だけ。
「明は、心にきれいな広い空を忘れないで。明はおひさまとお月さまを浮かべる大きな大きな空。」
お母さんは言いました。
明ちゃんは泣いて、一晩考えて、次の日学校に行きました。そしてその男の子の席にまっすぐ歩いていくと、小さな野の花を差し出したのです。ちょっと緊張して、まだちょっと怒っていましたが、その顔は穏やかでした。
「これ、あげる。花の名は、はこべ。私の故郷によく生えていて、小さくても可憐な花を咲かせるの。私はいろいろな野の花を病気のお姉ちゃんに毎日持って行ってあげてるのよ。ハコベは食べてもおいしいのよ。私の考えた花言葉は、「友達になりましょう」」
男の子は、顔をのけぞらせて目をそらしました。
「はい、あげる。」
ずいっと、明ちゃんは花をさらに差し出しました。そして、気づいたのです。男の子の体には、生傷がいくつかあることに。
ああ。明ちゃんは悟りました。誰もが、明ちゃんみたいに優しいお父さんとお母さんを持っているわけじゃないのです。
男の子は、明ちゃんの表情から何かを感じ取ったようでした。花を乱暴に受け取り、後ろを向きます。
「やっぱりだめかな。届かないかな。」
明ちゃんががっかりしたとき、彼は振り向いて新品の鉛筆を差し出して、
「やる。」
といいました。男の子の歪んでいた表情に、小さく明るい光が灯っていました。
明ちゃんは思いました。いやな思いもしてけれど、それも含めて、この男の子と会えないより会えた方がよかった。
男の子の名は洋君といいました。
ですが、この街の灰色の景色、四角く切り取られた空、夜通し響く騒音と人工の光、ぶつかるほどにあふれかえったいそがしい大人たち、そして緑の少ないこの街は、燦ちゃんにとって耐え難いものでした。
「お父さん…試練だなんて。もう耐えられないよ。」
燦ちゃんはとうとうご飯ものどを通らなくなりました。
明ちゃんはぎゅっと口を結び、忙しく働き始めました。灰色の部屋いっぱいに紙を張り付け、真っ黄色の菜の花と、黒い鳥の絵をたくさん、たくさん描きました。壁に、床に、天井にまで。
「カラスだ、カラスだ、かあ太郎だ!」
燦ちゃんは笑いました。明ちゃんも笑い、二人は転げまわって笑いました。おなかを抱えて笑い転げました。
そしたら、ものすごく悲しくなって、二人は手を取り合って泣きました。
泣いて、泣いて、涙が枯れ果てると、心の中にポツンと明るい光が灯りました。
「私、ご飯ちゃんと食べるから。」
ありがとう明。そう言って、燦ちゃんはちょっと笑いました。
でも咳が止まりません。
「もう死ぬのかもしれない。」
燦ちゃんは思いました。そのとき、かあ太郎の森で感じた、不思議な感覚が戻ってきました。命は大きな輪(サイクル)のなかにある。青葉と枯葉は、生と死は、一つにつながって、宇宙を回している。宇宙と私は同じものだ…そのとき、車の音が全部消えました。空気は澄んで、すべてが静寂に包まれました。燦ちゃんの心は大きく大きく伸びて、宇宙と一つになりました。燦ちゃんは空を見上げました。青い蝶が舞っています。それを、咳をするのも忘れて燦ちゃんはじっと見つめていました。
街にも空がある。淀んでいるけれど水があり、木があり、花が咲くこと。
騒音があふれ自分を見失いそうになるけれど、マンションの入り口にある花壇の、小さな陽だまりの中に座って、燦ちゃんは考えます。この陽だまりの中で、たしかに心の静けさが保てるということ。幸せはそれを感じられる心の中にあるということ。
燦ちゃんは強い決意と共に、空を見上げます。
「かあ太郎、私はちゃんと生きてるから。いつかまた会おう。」
その日から、燦ちゃんの体と心は少しずつ、強くなっていきました。
「明、いつか帰ろうね。かあ太郎の村へ。」
燦ちゃんがやつれた顔に微笑みを浮かべて言います。
考えついたら即実行の明ちゃんは、あの村に行こうと決心しました。
洋君も一緒に行くといいました。
「いいよ。洋。怒られるよ?」
「いいんだ。俺は明と行く。ただつらかっただけの俺の人生に、初めて光を灯してくれた人だから。明の役に立ちたい。」
明ちゃんは、洋君と一緒に、日が出る前に家を出ました。電車を乗り継ぎ、一時間に一本のローカル線に乗って、バスに乗り、あとは林道を地図を頼りに歩きました。正午を過ぎるころ、持ってきたおにぎりを食べ、水筒の水を飲んだ二人は、すっかり村への道が分からなくなっていることに気づきました。
明ちゃんは泣きそうなのをぐっとこらえて、「もう帰ろう?」
と洋君に言いました。
でも洋君は、「せっかく来たんだ、もう少し粘ろうよ。」と明ちゃんを励ましました。「…うん!」その時です、あの村のにおいがしたような、気がしました。
川の流れる音がします。あっち!明ちゃんは洋君の手をぎゅっと握って走り出しました。日はもう暮れかかっています。
川に出ました。
「この川の向こう!覚えてる!」
明ちゃんは叫びました。しかし、ああ、昨夜の雨で川が氾濫して、とても渡れるような状況ではありません。膝まで浸かって進もうとする明ちゃんを、洋君が引っ張り止めました。
「溺れるぞ!」
明ちゃんは膝をついて泣きました。絞り出すような声で泣きました。その時です。黒い大きな鳥が一羽、まっすぐ明ちゃんと男の子のほうへ飛んできたのです。
「カラス!」
カラスは、くちばしに加えた一輪の菜の花を、二人の足元に落として、消えました。
明ちゃんの目は輝きました。
「菜の花だ!菜の花が咲いているんだ!」
洋君を振り返ります。
「帰ろう!帰ってみんなに知らせよう!」
もう夜でした。
一晩中歩いて、家に帰った二人は、明ちゃんのお父さんとお母さんに、叱られました。
でも菜の花を見せると、お父さんとお母さんは言葉を失い、そして、
「行こう!」
お父さんが言いました。
一家は車に乗って村に向かいました。道が渋滞していました。道々かあ太郎はどうしているだろうかとみんな考えました。それは長い長い道のりでした。朝暗いうちに出て、月が東に出るころ、太陽の沈むちょうど前に、一家は村にたどり着きました。
かあ太郎は、車がやってくるのを見て飛びだしました。
「きっと燦ちゃんだ!」
確かに、燦ちゃんでした。
燦ちゃんは、一面の菜の花畑に、息を呑みました。お日様が一筋、ちょうどその時畑にさして、菜の花は金色にキラキラと輝きました。
「かあ太郎!」
燦ちゃんは、叫びました。
子ガラスだったかあ太郎の羽には白いものが混じり、燦ちゃんはもう小さな子供ではありませんでした。
でも、二人にはお互いがすぐにわかりました。
燦ちゃんの歩き方と、匂い、そして、その瞳に盛り上がる涙で。
かあ太郎の飛ぶ姿と、かあかあというしゃがれた声、そしてその目に流れる涙で。
「かあ太郎!」
「かあかあかあ」
二人は泣きました。お父さんとお母さんも、泣いていました。
明ちゃんは花畑の真ん中で、踊っています。
燦ちゃんは、かあ太郎の苦労に気づきました。くちばしは種まきで傷み、翼は機械油にまみれ、いっぱい泣いたかあ太郎の目は涙で濁っていました。
「かあ太郎、ありがとう、ありがとう!これからはずっと一緒だよ。」
満開の菜の花の真ん中で、一家はこの上ない幸福に浸っていました。
それからしばらくして、年を取ったかあ太郎は永遠にその目を閉じました。燦ちゃんの腕の中で。
燦ちゃん、明ちゃん、僕は幸せだった。この世では、やさしい気持ちになることが一番幸せなことなんだ。自分を離れ無私の境地に至ること。それは苦しみを知らないとわからない。そして、それは君たちがいてくれたからこそ、できたことなんだ。今思えばあのつらい時間さえ、君たちを思っている幸せな、幸せな苦労だったよ…
生きていることにはちゃんと意味があるんだ。ありがとう、ありがとう…
燦ちゃんは、元気になって両親とともに、菜の花畑の手入れをして暮らしています。村の人も少しずつ戻ってきました。
「汚染された過去、かあ太郎の努力の跡、すべての歴史を経て、スクラップの上に咲く菜の花が、今は何よりも美しく見えるんです。」
燦ちゃんはそう言います。
ブルドーザーで廃車やごみをどけないか、ドローンで種を蒔かないか、という人もいましたが、燦ちゃんは笑って、首を振りました。かあ太郎の不屈の精神と努力が教えてくれた。
「そのブルドーザーを作るのに、また村を一つ、潰すんですか?」
機械は簡単に村一つつぶせるけれど、病気の人の背中をやさしくなでることはできない。村をつくりあげるのは人の手で、きずなでしかない。「私は人間の汚した土を、この二本の手できれいにしていきます。傷ついた大地を、あたたかなひとのてで、なでるように、いやすように。」それが、燦ちゃんの喜びなのでした。
「私は文明を否定しようと思っているのではないのです。ただ、今の世界にはあまりに安らぎが少ない。欲望が狂奔し、加速しているように見えます。だからここで私は幸福の種をまくのです。」
本を書かないか、テレビに出ないか、という人もいましたが、燦ちゃんは黙って微笑み、菜の花の手入れと、汚染された土をきれいにする仕事を続けるばかりでした。それをもったいないという人もいます。もっと事業に手を広げれば、可能性があるという人もいます。
でも燦ちゃんの心は安らかで、静かな喜びに満たされています。
「人々が頼りにしている化石エネルギーもいつかは尽きる。その時、人間はどう生きるべきか、ここで自給自足に近い生活をしながら、考えていきたいのです。」
今、村の真ん中を突っ切る汚れた小川を甦らせようとしているところです。毎日バケツで汚泥を運んでいるところです。
明ちゃんは、生物多様性を研究する学者さんになって、世界中を飛びまわっています。時々、この村に帰ってきます。
月が東に現れ、西に日が沈むころ、燦ちゃんはいつも、明ちゃんと手をつないで、かあ太郎を思い出します。
そして、インターネットに掲載された写真から、燦ちゃんの姿は少しずつ、世界に広まっていきました。
観光客がたくさん訪れます。
みんないい空気で元気になって帰っていきます。
菜の花の畔に寝ころんで深呼吸をしている人もいます。
自分の村でも菜の花を育てようとする人もいます。
自分の家の庭先に花を1株植えようと思った人もいます。
農業を将来の仕事にしようと決めた高校生もいます。
写真を撮る人もいます。
イーゼルを立ててのんびり絵を描いている人もいます。
詩にした人も、歌にした人もいます。
昔、かあ太郎が見せてくれた水晶のように、菜の花の光景は人々の心の聖域に、ひっそりと輝きました。
殺伐とした社会を生き抜いていかねばならない誰の中にも、共通して残ったのが、まるでおひさまみたいな、燦々と照る菜の花畑のような、心の“光”なのでした。
菜の花畑と日と月とカラス…このお話は、冒頭の姪っ子の絵から着想を得て書きました。
ここまで読んでくださってありがとうございました。皆様のご多幸をお祈りしております。
文・さし絵 岡市裕子